体幹に共鳴するウェン=シン・ヤンさんのチェロ

指揮者マゼールも絶賛した世界的なチェリスト、ウェン=シン・ヤンさんが2年ぶりに来日、
白寿ホールでコンサートを開きます。

ウェンさんのチェロは重厚で孤高の香りがしますが、聴いているうちに深い森を歩く時のような気持ちになるのです。
森の奥には一本の大きな老木がそびえています。堅くて頑固そうな樹皮をもった古い木です。
でも、その幹に空いたうろには木漏れ日が降り注ぎ、生き物たちが生き生きと活動しています。

ウェンさんのそんな音楽は、聴く者の体幹に響き、「わたしはここにいる」ということを確認させてくれます。

白寿ホールの新しい、そしてクラシックでは珍しい、リーズナブルな値段のコンサートシリーズ
「ワンダフルoneアワー」で、気軽にウェンさんの音楽に触れてほしいと思います。

コンサートの詳細とチケットについては下記白寿ホールのサイトまで。
http://www.hakujuhall.jp/schedule/index.php

同サイトにわたしもエッセイを寄稿しました。ぜひご覧ください!
http://www.hakujuhall.jp/schedule/artist/index.html

ジャッジョーロハーブハウス銀座「夏の夜の茶話会」

7月22日、午後7時から銀座のハーブハウスにて
「震災後の心の傷を癒す」
をテーマに、トーク茶話会を行いました。
震災から四ヶ月以上が経っても、なかなか進まない復興計画や放射能の不安に、
わたしたちの心は暗くなりがち。
花とフルーツの美味しいハーブティーと薔薇のお菓子で少しでも優しい時間を、
と考えました。

テーブルの上にはフロリスト「UNNEUF」主宰の安部晃久さんによる、
美しい薔薇の花びらとキャンドルのデコレーションが・・・。
薔薇は自分を愛する気持ちになれる香り。
まずはいい香りに包まれて、リラックスしてスタート。

今回は茶話会なので、お客様にもたくさん発言していただきました。
女川町から避難していらしている方の「舞台が廻ったと思った」というお言葉、福島にご実家がある方の「気持ちの整理がつかず、感情が止まったまま」というお話に言葉を失いました。

しかし、そのような状況にあっても前に進もうと懸命に生きている姿に誰もが心を打たれ、感動が静かな漣のように広がっていきました。

どんな環境にあっても、一人ひとりがこの震災を自らのこととして人生に深く受け止めている参加者の姿はとうとく、また、誇りに思いました。

そして、家族や友達や同僚ではなく、なんの利害関係もないが、ある共通項を持つ人々の中で、ひとは話をすることができ、それによってわずかであっても癒されるのだということも知りました。

あっという間に過ぎた2時間。
また次の機会に、こうしてみなさんとお話を交わす時間を持ちたいと願っています。
ご参加のみなさん、ありがとうございました。

いま、多くのひとに観てほしい舞台「アンネ」

演出家、山下晃彦さんと対談しました!

舞台「アンネ」

5月3日から15日まで、シアター代官山で舞台「アンネ」が上演されています。

劇団ひまわり60周年記念公演「アンネ」は一昨年に初演されたもので、深い感動を覚えました。

無事に初日を迎えられた演出家の山下晃彦さんと対談しました。

なぜいま「アンネ」なの?

山下晃彦さん

 一昨年の初演のとき、正直言って、なぜいま「アンネ」なの、と思ったんです。小学校のときに読んだきり読み返していないし、ほとんどの人が、知ってはいるけど興味ない、っていう物語ですよね、もはや。でも、舞台を観てすごく感動して・・。

山下(以下、) ありがとうございます。僕もこの時代にアンネの日記をテーマにすることの難しさはすごく感じていました。

 第二次大戦のことを今も考え続けている人なんかいないですしね。

 2時間半もの暗い話にお金出すのいやだな、って思うだろうな、とか。でも、圧倒的な不自由さ、迫害された環境の中で人がどう生きるか、というテーマは、ある種の普遍性を持っているとは思ったんです。

天使の羽はアンネの魂

 最後の方で、全員が白い薄い紙を持って、羽みたいにふわふわさせるところがありますよね。そういうライティングだったかどうかわかりませんが、天上からの一筋の光に照らされた聖なる光景が立ち現れたと感じました。それに打たれて、ああそうか、人が生きるということには、聖なるもの、敬虔さといったものがあるんだ、と思い出したんです。

 あの紙は、アンネが書いた童話に出てくる天使の羽というモチーフをどう表現しようかと考えて、それが「紙」だ、と。

 紙・・。

 そう、アンネはキティと名付けた日記の他に童話もエッセイも書いていた。中でも日記は彼女の親友というか、鏡というか、それにずっと語りかけるように書いていくことで、自分自身と対話しているんですよね。その対話によって、2年間の隠れ家生活の後半に急成長していくんです。

 いわば紙が、アンネにとっての鏡。

 それと妖精がどう結び付けられるのかと考えていて、あるとき日記=紙=妖精、とつながった。

 紙の仕事をしているわたしにとって、紙のはかなさや尊さが、まさしく天使の羽のように響いて・・泣けました。

 それは紙がアンネの魂を体現するものだったからでしょうね。

 そしてあの狭い隠れ家ですが、震災後はなにかもう、イメージがだぶってしまって・・・。

そこに人がいたという実在を示したい

 日記と妖精と隠れ家というのがこの芝居の三つのモチーフなんですが、隠れ家については、震災後に考えがさらに深まりました。

 どんなふうに?

 あの津波の映像ばかり見ていると、そこに人々がいたことが想像できなくなってくるんですよね。ただ家という物理的な建物がなくなってしまっただけじゃない、一本の柱にも、見えない手跡みたいなものがたくさんついているわけでしょう、それが喪われてしまった。

 ただ雨露しのげるものがなくなった、ということだけでなく。

 家という、いわば世界と自分とをつなぎとめておくものがなくなってしまったんです。

 大事な精神のよりどころとしての家が・・・。

 その屋根の下に、どれだけデリケートな悲喜こもごもがあったか。演劇の一番なすべきことは、そこにそうして人がいた、という実在を示すことなんだ、と改めて感じました。

震災後、役者たちは・・・

 ちょうど震災のあった週が稽古始めだったそうですね。

 僕は全然やる気だったけれど、結局5日間、稽古を遅らせました。そして最初に集まったとき、震災でどう気持ちが変化したか、役者たちに話してもらったんです。

 あらゆる人が、あのとき、自分の仕事とは何か、社会の中てどういう意味を持っているのかを問い直さざるを得なかったですよね。

 でね、多くの若い役者たちが、いつもと何も変らない、自分が出来ることは芝居をするだけだ、と言ったんです。自分のやる仕事を感謝とともに淡々とやるだけですって。

 おおっ、カッコいい!

 もちろん何も手につかなかったという人もいたし、それはそれでわかるし、正直だな、と。でも役者たちも僕らも、人間とか人生とか命とかについて、いつも考えているんですね。それを改めて確認しました。

 アンネの隠れ家での暮らしの不自由さは、震災後により想像できるようになったとか。

 それはより身近になった。そしてさらに、生身の人間同士が向かい合っているんだ、ということをもっと意識するように役者たちに言い続けました。お客さんに、いまここに立ちあってくれる人々に敬意を持て、本当に誠実に語れ、と言って稽古してきたんです。

演劇は生身の人間同士が誠実に出会う場所

 言葉が情報としてだけの機能になって切り取られていく現代社会の中で、震災後は改めて、生身の人間の発する言葉のエネルギーを痛感しました。

 光野さんの朗読ライブでも感じることだけど、お客さんに対し敬意を持って誠実に言葉が発されるとき、お客さん自身も物語のなかに入らざるを得ないし、そこで語られる物語の大事な要素なんだ、と実感する。そして、自分が物語のかけがえのない一部だと観客が感じたとき、その内面に何かが起こる。

 感情の変化とか、あるいは心がマッサージされるようなことが起こる。いわばエネルギーの交感、交流ですね。

 目の前に生身の人間がいて、その命の手触り、つまり人がそこにいることの素晴らしさを2時間、用意された椅子で集中して観るということって、実は普段、あまりないことなんですよ。

 すごく特殊な、すごく素敵なことですよね。映像を見るのとはとは違う。

 それは舞台から観客へ、また観客から舞台へと確実に受け渡されていくコミュニケーションだから。それこそがいま求められているものだと僕は思うんです。

命を十全に輝かせて生きる

 「アンネの日記」は38カ国に翻訳されて、累計1800万冊売れている永遠不滅のベストセラー。この本のどこにそれだけの力があるんでしょうか。

 今という時代、世の中あらゆるパフォーマンスは、この世というスパンだけで見ると、多かれ少なかれ人が喜ぶものしか残らないんだと思うわけです。だけど「アンネの日記」にはそういう現世利益的なものだけじゃないものが宿っている。人間の世界を水平軸とすれば、垂直軸、つまり天と地というか、天上へと繋がる奥行きといったものがあると思います。

 アンネ自身が願っていた通りに、死んだあとにも残った。

 人々に対して、愛としか言いようのないものを死んでからも与え続けているわけです。

 弱冠13才の女の子が書いたものなのに・・・

 それはやっぱり、あの迫害された極限の状況下で、それでもアンテナを張って、命を十全に輝かそうとしたことの偉大さ、崇高さということだと思うんです。

 収容所へ入れられてからのアンネを語っている人がいるそうですね。

 がりがりに痩せた女の子がね、それでも「わたしに何かできることはありませんか、こう見えて、わたし結構手先が器用なんですよ」と笑顔で言っていた、という目撃談があります。

 震災後の世界で、アンネの生きる姿勢は、確実にわたしたちの指針となり得るものですね。今日はありがとうございました。

アンネ公式サイト
http://www.himawari.net/stage/anne/

枝を飾る

唐松の枝

一年を通して、枝をよく飾ります。花も、木の花をどさりと活けたい。冬は特に、枯れ枝が似合う季節ですね。

去年の秋に出かけた長野県の大鹿村で、大きく立派な唐松の枝をひとつ、森の中から拾ってきました。
その枝ごと飾っていましたが、電気工事のときに折れてしまったので、ガラス瓶に挿し替えました。

瓶の外に置いた松ぼっくりが3つついたものも同じ枝。大きかったときにはわからなかった枝の曲線の可愛らしさ、薔薇の花びらのような形の実。自然の造型美はすごい。

もうしばらく、春までは枯れ枝を楽しみます。

からみ合う三人の足「ろくでなし啄木」

ろくでなし啄木

東京芸術劇場で三谷幸喜の「ろくでなし啄木」を観ました。
大劇場での商業演劇を観るのは久しぶりです。会場はほぼ満席。女の人ばかり。すごい人気なんですね。

温泉宿を舞台にしているので、のっけから浴衣姿の役者が登場。思わずその素足に目が釘付けに。

足というのは不思議な存在で、ふだん隠されているからか、それ自体がなによりもエロティックに感じられます。そして、そのひとの本質的な何かが、足に現れているような気もします。

啄木を演じる藤原竜也の足が、思いのほか甲高な、がっしりとした男っぽい足だったのでドキリとしました。ふくらはぎも筋肉質。
少年のような風貌とは裏腹な、男の匂いがぷんぷんしそうな足。このひと案外男っぽいキャラなのかも、なんて思ったり。

啄木の恋人、トミ役の吹石一恵は、テレビの印象よりずっと華奢で美しく、その足も、浮世絵の春画を思わせる、真っ白でこづくりな可愛らしさ。赤い腰巻から覗くそんな足を大股開きで大熱演です。

中村勘太郎は達者という言葉がなにより似合う、役者の塊のような印象です。全身、どこを見られても恥ずかしいところなし、という歌舞伎俳優らしい鍛え方、磨き方をしている肉体がばねのように弾け、汗まみれで熱演。

でも、ふとした瞬間、すんなりした脛が無防備になるとき、繊細さが滲み出る。
肉体とは魂の乗り物、やっぱり素のその人が出るのかも、なんて想像してしまいました。

絡んで、もつれて、絡み合う三人の足の存在感。虚構と現の間に浮かび上がる足が、なによりエロティックな芝居でした。

今は天王洲の銀河劇場にて上演中です。